「近いうち」について思う


午後からから久しぶりの本格的な雨。それを見越して午前中にブロッコリーの苗を植栽。


先日の中日新聞にひるがの高原コキアパークで紅葉したコキアの写真が載っていた。ここ三好丘でも、けさのウォーキングの際丘陵地の畑ですっかり紅葉したコキアを見つけた。つい先日までは爽やかなグリーンだったが、このところの朝晩の涼しさでこんなに紅葉した。


三好丘に越してきた時にウチでも植えていたが、大きくなりすぎて場所を取り過ぎるのですぐやめてしまった。当時は枝や茎を乾燥させてほうきを作ることからホウキグサと呼んでいた。いつのまにか、ハイカラな名前に変わってしまった。


「近いうち」解散が今月中か、年内か、年を越したら「近いうち」でないなどと政界の話題がかまびすしい。元来日本語というものが、欧米語に比べ論理的な言語でないところへ持ってきて、世の中がグローバル化して欧米的表現が蔓延している中で影響力ある人物の苦し紛れの日本的発言が物議を醸し出しているかっこうにみえる。


それに加え日本の閉じた社会では、意見をはっきりいう人間はうるさいやつだと嫌われる。(石破さんが、党の長老から嫌われたように)そんな文化が曖昧な表現を許してきたことにも一因があるのではないだろうか。


そうかといって、日本語が論理的な言語でないことや曖昧な表現を許す文化が決して悪いことではないと思う。シャバで起きる事象ごとに都合の良い場合もあれば不都合な場合もある。決して卑下することはないと思う。