冬の入り口


12月の声を聞いたとたんに、きのうはあられが降るは、けさは霜で野や田が真っ白。いまさら、「枯葉」だの「秋風のヴァイオリンのながいすすりなき」などとセンチメンタルなことなど言っていられない。「あられ」や「霜」もさることながら「12月」という響き自体が冬の入り口を表しているようだ、40年以上前に暮らした北陸では鉛色の空から降る雪混じりの冷雨、「雪起こし」と言われる冬の雷が冬の入り口だった。所変われば冬の入り口も違うものだ。


冬から春に移るときは「三寒四温」を繰り返しながら春になってゆくものだ。逆に秋から冬へは「三温四寒」の繰り返しで冬に入ってゆくのではないだろうか?きのうの「あられ」とはうって変わってきょうは穏やかな青空の陽気。晩秋から冬にかけてこんな日がめったにない北陸では今日のような陽気を「旨い日」と言っていた。



昨日の日曜のこと。5月のトルコ旅行の同行仲間の会オスカークラブ(アカデミー賞受賞者はひとりもいないが、現地ガイドの名前がオスカーだったから)の懇親会が名古屋のトルコ料理店であった。帰途、冬の入り口を見つけるべく三好丘駅から約3kを歩いて帰宅した。およそ2週間前にはあれほど見事に紅葉していたバス通りのモミジバフウもあられが通り過ぎて趣より寂しさがまさる景色だ。


とはいえ、桜公園の裸になったハクモクレンなどはビロードに包まれたような花芽を鉛色の空に向かって光らせている。枯れて死んだふりをしているようだが、どっこい身のうちには春を抱いている。冬の入り口の扉は開かれたと言っていいだろう。