塩の道 中馬街道


朝のラジオでお天気ねぇさん「きょうは、1円玉天気」と告げていた。その心は絶対崩れないとのこと。そのお告げ通り快適な陽気の一日。けさの中日新聞の一面に知立カキツバタの写真が載っていた。それにあやかるわけでもないが、ウォーキングコースの低木や雑草の生えた道路脇にポツンと一株だけアヤメが「掃きだめの鶴」よろしく咲いているのではないか。初夏の日差しに鮮やかな彩を放っている。


生涯学習講座「歴史散歩」塩の道”中馬街道”を歩く が始まった。今週から5回の講座。第1回目のきょうは座学で予備学習。

<要旨>
三河から,足助を通り,信州の根羽・飯田・伊那に至る道は,塩を運んだ道として古くから重視されてきた。

●「中馬」は,江戸時代に,信州の馬稼ぎ人たちがつくっていた同業者の組合で「賃馬」(ちんば)「中継馬」(ちゅうけいば)などが語源と言われる。この中馬は,信州から年貢米・タバコ・その他,山の産物,足助から「足助直し」と呼ばれた塩を中心に運んだ。

●参勤交代で使うような公的街道では制約(宿場毎に荷物の積みおろしなど)が多く、運賃が高く時間がかかる事が「中馬」の発生の背景。   

三河湾沿いの大浜・棚尾(碧南市),生田(一色町)などでとれた塩は,岡崎の塩座が矢作川の管理権を握り矢作川の古鼠(ふっそ:豊田市),矢作川支流の巴川の平古(ひらこ:豊田市)まで川船で運び,そこから馬の背で足助の塩問屋に送られた。


●運ばれてきた塩は産地によって目方が異なっていたので,足助の塩問屋は山道に適するように,7貫目(約26㎏)に俵を包み直し,信州へ運んだ。塩問屋は14軒(江戸時代後半)あり,年間2万俵(明治中期)を越える塩が信州へ運ばれたとされる。一頭の馬の背に,4俵ずつつけて運んだので,年間延べ5,000頭を越える馬が必要とされた。

                                                              ●人・物・金が動き、情報や文化がもたらされた中馬街道も明治の末頃から大きく衰退をはじめた。道路の改修により明治の末には運送馬車が出現、中央線が開通。昭和の初めには自動車が出現、飯田線が開通。矢作川の水運も越戸ダムの完成で終焉した。昭和のはじめまでは細々と生き続け、戦後になって完全に終焉を迎えた。