第2のふるさと 金沢


金沢は第2の故郷だ。というのは、70有余年の人生の中で最も中身の濃いのが金沢の10年だったからだ。結婚したのも、3人の子どもが生まれたのも、酒付き合いができるようになったのも、ゴルフを始めたのも、金沢時代だった。後年の大阪時代に初対面の人から北陸育ちかと訊ねられるほど金沢言葉に馴染んだのだ。


東京五輪の年、昭和39年に入社し高度成長時代で会社は300社近い子会社が全国にあった。研修の意味で子会社へ出向するのは慣例であった。同期入社の3人に金沢の会社への声がかかった。2人は金沢の大学出身で縁があったのだろう。自分は入社面接のとき遠隔地の出向でも構わないと云ったのが縁だったと今でも思っている。


3人は3年ほど勉強して来いと云われたものの、その内の一人はそのままその会社の主になってリタイヤー。もう一人は7年在籍後、別の子会社に。2人とも金沢人になっている。



子会社出向が当たり前だったから、家を建てると出向の声がかかるというジンクスがあった。自分も、金沢在住丸9年が経ったのを機会に骨を埋めるつもりで土地を買い、家を建てる手配をしている最中に名古屋の親会社からお呼びがかかった。ジンクスはやはりあったのだ。


このたび、我々3人より4年前労働争議の激しかった時期から出向された先輩諸氏とともにこの会社の再建に尽くして他界された方を偲ぶ会を催したのであった。20年以上も前から毎年11月に行っていたが、一時中断していて今回リニューアル再開して11人が集まった。


考えてみれば、突然の赤紙(辞令)1枚で何処へでも飛ばされ、300近い子会社があるとどんな職種の会社に行くかもわからず、職業選択の自由もままならない”しがないサラリーマン”人生だった。47年前金沢に出向した3人だけで何年振りかに日付が変わるまで飲んで歌ってそんなことを語り合った。


明け方、雷鳴と共にホテルの窓ガラスに叩きつけるアラレの音に目が覚めた。14階の窓から見下ろすと、屋根も道路も真っ白だ。第2のふるさとの面目躍如たる音といい風景だ。