浮世離れ


日中は穏やかなポカポカ陽気が続く。12月の声を聞いて、ウチのサザンカもやっと咲き始めたと思っていたら、けさのラジオ深夜便きょう4日の誕生日の花はサザンカと告げていた。 ウッドデッキの手すり越しに頭を出しているモミジの紅葉もまだ盛りだが、冬に咲く花のビワも咲きだした。


庭の花木も秋から冬へと季節の移ろいのバトンタッチを始めたようだ。どこかで見たような構図だ。そういえばきのうの中日夕刊の一面に「冬バトンタッチ 徳川園・サザンカ」の見出しで写真が載っていた。きょう4日の誕生日の花がきのう分かっていたらきのうの日記に一足先にアップしたのに。そうすれば、猪瀬知事の借用書みたいに後出しジャンケンはよくないと云われずにすんだのになぁ。




多治見のコミュニティー紙に高校の同級生で大学の教授をしていた友人がそのコラム欄で「良俗たる惻隠の情が死語になっている」つまり、「普通の生活の中で他人に哀れみの心を持つと云ったことがなくなってギスギスとした世の中になってしまった」と嘆いていたことがあった。仲間のブログで論議を呼んだ。


自分はそのときこんな投稿をした記憶だ。「確かにその通り。しかし、実業の世界で一歩間違えれば塀の向こうに落ちるというタイトロープの上を常に歩いて来た者にしてみれば、なんだか浮世離れした嘆きに聞こえる。もっと、卑近な例でいえば、西鉄、西武時代の東尾投手。危険球すれすれのシュートを投げることで有名だった。彼曰く。やるかやられるかのプロの世界。お嬢様芸みたいのことではメシが食えん。」


きょうのセレモニーじみた形式的な党首討論を見ていてそんなことを思い出した。象牙の塔も政治の世界も大して変わらない。浮世離れしている。