清水礼留飛選手


鈍い日差しながらおおむね晴れ、冷たい風の一日。きょう19日は二十四節気の「雨水」。雪が雨に変わり雪解けが始まるという日で、忍び寄る春の気配に草木が蘇る頃だ。きのうの中日夕刊の「夕歩道」欄ではこの「雨水」を「凍っていた大地が暖かい雨で潤い、目を覚ます。農耕の準備を始める目安」とも報じていた。


週末に降った雪の庭の吹き溜まりもきのう辺りにやっと融けた。暦の「雨水」を見越しての雪解けみたいだ。融ける前は花壇のノースポールを覆っていた。このノースポールという花の名前の由来は、花つきがよく株全体を覆うほどに白く咲くことから「北極」のイメージが連想されたという。この写真はノースポール(北極)の氷原に咲くノースポールの花だ。



ソチ五輪スキージャンプ団体戦での銅メダリスト清水礼留飛(れるひ)選手。変わった名前だなと思っていたら、日本にスキーを伝授したオーストリア軍人レルヒ少佐にちなんでのことだと各マスコミが伝えていた。なるほど合点。興味が湧いて更にネットで調べるとなかなか奥深いものがあった。


● レルヒ少佐が日本にスキーを伝授したきっかけは明治35年の歴史に残る199名の死者を出した八甲田山遭難事故に遡る。無謀とも思えるこの行軍は、実際には2年後に起きるロシアとの戦いへの備えだった。遭難の原因は地元民の案内人をつけなかったことがあげられた。もうひとつは、「かんじき」か軍靴だけでは想像以上の雪に動きがとれなかった。


● 日露戦争でロシアに勝利した日本。オーストリア側は日本陸軍の研究のため、日本側は八甲田山の遭難事故の反省に立ちレルヒのスキー技術に注目して彼を交換将校として招いた。日本のスキー「事始め」は「スキーをはく軍隊」の必要からだった。


●レルヒは1本杖、2本杖の両方の技術を会得していたが日本で伝えたのは重い雪質から杖を1本だけ使うスキー術であった。ほぼ同時期に普及した札幌では、2本杖のノルウェー式が主流となっていた。次第に2本杖のノルウェー式が圧倒。レルヒが伝えた1本杖の技術は急速に衰退した。


ゲレンデで楽しむスキーの陰ですっかり忘れ去られていた「スキー事始め」やロシアにおびえていた歴史がソチ五輪、とりわけ清水礼留飛選手の活躍で突然よみがえった。因縁めくが、スキージャンプ団体戦で一つ上の2位になったのは少佐の母国オーストリアだった。日本としては100年後の恩返しと云っていいのではないだろうか。