日系ブラジル人


最近の天気予報はよく当たる。きょうも予報通り昼前から雨。いいお湿りと云った感じだ。庭の山茶花の垣根の下でラッパスイセンが一斉に花開き始めた。山茶花の花びらの赤とスイセンの黄がしっとりと湿り気を含んで色鮮やかだ。このラッパスイセン、先日の土曜15日の誕生日の花だった。当日にはまだ咲いてなく3日遅れでご挨拶だ。


生涯学習講座の国際理解講座ブラジルの2回目。地域での断りきれない会議があったため、講座開始時間前に行って先生に質問したいことだけをしてティータイムに出されるケーキをいただいてきた。                        


質問したかったのは、以下のこと。5年前の09年にもこの学習講座で日系3世の医大卒女性講師のブラジル講座があった。当時はリーマンショックのあおりで日系ブラジル人が派遣切りに遭うことが話題になっていた。日系人は互いに助け合って生きている。マスコミで騒ぐほどでもないと講師は語っていた。その後、彼らはどうなっているかを知りたかった。




先生は100年続いた日本からブラジルへの移民が逆にブラジルから日本への移民への流れに逆転したきっかけから語りだした。
1970年代後半から80年代にかけてブラジルの経済は破綻したのに対して日本は高度経済成長で安定経済状況にあったこと、特に1989年に日本の出入国管理法が改正され、3世までが受け入れられたこと、円高で日本から送金したお金はブラジルで倍の価値になるほどであったことなどが出稼ぎ熱を煽り立てた。


2008年のリーマンショック後の不況を受けて毎月1万人程のブラジル人が減少し、2011年時点では既に多くの日系ブラジル人が戻っていた。しかし、2012年に入り、再び日本への移住希望者が増え始めた。先生は若いブルーカラー族がどちらの社会にもなじめず日本とブラジルの間を行ったり来たりしている連中が非常に多いと分析していた。


5年前の講師は当時豊田に8千人、みよしに1,200人のブラジル人がいると話していた。現在は豊田5,100人、みよし500人らしい。以上のようなことが分かった。というだけのこと。それより、ティータイムの時間に居合わせてボサノバのリズムの音楽を聴きながらおしゃべりでもしたかった。