コピペに思う


青空が広がり風も穏やかで過ごしやすい春の日となった。春の訪れがロウバイやマンサクの黄色の花で始まり、春たけなわのきょうこの頃ではハクモクレンやアンズの白い花にも盛りを過ぎた感が見えてきた。庭では痩せこけたライラックの木に白い花が咲き始め、家庭菜園ではダイコンの花の白さが日増しに強くなる日差しに眩しささえ感じるようになってきた。


四季折々に咲き競う花々の彩には、時には人の心が映し出されている。そんな気がする。




ゴルフを始めた頃ひとのスィングを見よう見まねで覚えたものだ。つまり、まねごとから始まった。やがて、曲がりなりにも「自分のもの」にすることができた。と云っても、どこまでが「自分のもの」で、どこまでがまねごとなのか境界線はあいまいだ。


現役時代の若い頃、上司から月別の営業成績を出せと指示があった。当時はパソコンなどないから電卓で計算して資料を出した。こんな数字が並べてあるだけの表だったら誰がやっても同じ。この数字が何を物語り、それに対してどう考えるかを報告するのが君の役目だ。と諭された。


上の二つの事例は小保方さん問題の時の言葉となっている「コピペ」の本質をついている事例ではないだろうか。文章やデータなどをコピーして別の場所などへペースト(転写・貼付)することの略語「コピペ」。「コピペ」も初期段階では有効な手段だろう。そこから得た知識や情報をどういうふうに「自分のもの」にするかにかかっているのではないだろうか。