軍艦島


9月に入って朝晩は随分涼しくなった。日中夏日、朝晩秋と云った陽気のきょうこの頃。それもそのはず、来週の月曜8日は二十四節気の白露、夜の間に大気が冷え込み、草花に朝露が宿る頃でもある。夏休みだったグラウンドゴルフもきょうから後期のシーズンインだ。日中は夏日だから、プレイのあとではシャワーなしではいられない。


土曜日の朝4時台のラジオ深夜便、明日へのことばのコーナーで「軍艦島世界遺産登録」を目指すNPO法人の代表坂本道徳氏が熱っぽく語っていた。この島のことは以前週刊誌のグラビアで見たことがある。実際にこの島に住んでいた氏が話す島の生活に大変興味を惹かれた。



氏は炭鉱マンの子として生まれ、小学6年から高校3年まで島に住んだ。 1974年(昭和49年)の炭鉱閉山で無人島になった後、産廃処分場になるとのうわさを聞き、大切な古里を守りたいという決意で、世界遺産登録を目指すNPO法人を、2003年に発足させた。


氏の話とネットで調べたことを合せるとざっとこんなことだ。「軍艦島」は長崎港の南西およそ19kmの海上にある島。高層アパートが立ち並ぶ外観が軍艦に似ていたことからつけられた俗称で正式には「端島(はしま)」と云う。江戸時代後期に石炭が発見され、その後明治23年から本格的に三菱の海底炭坑として操業。国のエネルギー転換政策を受けて昭和49年に閉山。



幅160m、長さ480m。東京ドーム5個分という小さな島ながら、最盛期の昭和35年には5,200人もの居住者。人口密度は世界一とも言われた。大正5年に日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅である30号棟が建築されて以来、次々と高層アパートが建設さた。


9階建てでもエレベータはなく、各棟をつなぐ渡り廊下があった。部屋はすべて6畳と4畳半の2部屋。炊事、洗濯、風呂、トイレは共同だったから、そこは居住者同士のコミュニケーションの場だった。トイレは閉山時には半分ほどが水洗式になっていたという。最盛期は3交代勤務で高層アパートは不夜城のように電気の消えることはなかったという。


小中学校のほか共同販売所、映画館や料理屋、娯楽場、病院など島内においてほぼ完結した都市機能を持つ炭鉱都市だった。
ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく近くの無人島につくられた。子どもたちに緑に接する機会を持たせるために屋上で稲作などもしたという。



公共の交通アクセスのなくなった今、「軍艦島上陸ツアー」が話題を呼び数十億の経済効果をもたらしているという。氏は放送で取り上げていなかったから安心したが、ここで働いていた人たちの労働問題、とりわけ戦前・戦中の朝鮮人、中国人労働者のことまで言及するのは次元の違う話だ。純粋に産業近代化遺産としての軍艦島にスポットを当てて世界遺産登録を目指して欲しいものだ。