平和ボケ


昨夕からの雨はきょう日がな一日降ったり止んだり。夕方には薄日も漏れてきた。暖かな雨だった。「木の芽雨」とでも言おうか。四つ池公園遊歩道の芽吹いたばかりの柳の新芽がこの雨に洗われて美しい。


硬くなっていた冬芽が、次第に緑がかり、やがて、小さな、かわいらしい葉っぱを、のぞかせた。霧雨の中、遠目には若緑のレースのカーテンのようにさえ見える。こうした風情には、やはり「木の芽雨」と云うのが一番ふさわしい。



地下鉄サリン事件があす20日で20年になる。新聞やテレビでもこの事件の検証がされている。あるメルマガで「大阪の陣400年」と題する記事があり、今年で400年目となるこの変を検証していた。豊臣方の「平和ボケ」で徳川方に滅ぼされたと結論づけていた。


こうしてみると、20年前の地下鉄サリン事件も400年前の大坂の陣も帰するところは「平和ボケ」ではないだろうか。地下鉄サリン事件坂本弁護士一家殺害事件と松本サリン事件が起きた時、もっと危機感をもって対応していたら防げた可能性が大だとの検証もされている。


松本・地下鉄の両サリン事件は世界初の化学テロであり、世界中を震撼させた。米欧ではこの惨事をモザイクやカットをすることなくテレビ放映し、雑誌にも掲載していて、日本人以上に危機感を持って受け止めていたとされている。これは、裸にされた大坂城内にいる豊臣方のように「自分たちだけは何とかなると思い込んでいる」状況と地下鉄サリン事件が起きる前や起きた時の「生ぬるい」状況とダブって見える。



北朝鮮による拉致問題、対中・韓・露との領土問題なども同根の問題だろう。相手が日本人か外国かの違いだけである。「戦争はダメ」当たり前である。「粘り強い外交努力を」そう願いたい。しかし、危機はすでに現実だ。どうする? 強くすることだ。軍事力ではない。国民の意識だと思う。それは、教育に始まると思う。


きのうのメイちゃんパパさんのブログでJリーグ松本山雅の応援風景に寄せて、こんなカキコがあった。「松本山雅のサポータが歌う長野県民歌<信濃の国>、これほど県民から愛されている県歌は全国的にもみてもまずない。お国自慢を歌い上げた県歌は、県民の気持ちをひとつにするのにふさわしい・・・。」


これだ!と思った。戦いがない事だけが平和だとしか認識できないような平和主義では脆くて崩れやすい。「父母兄弟、友を愛し、郷土を愛し、国を愛すること」「国のあり方」を学ぶなかでこそ「平和を愛する日本人」が生まれてくるのではないだろうか。長野の県歌はその方向性を示唆しているのではないだろうか。