裏日本


先週金沢から名古屋へ北陸道のバスに揺られて帰る車中。真っ黒な空、日本海の荒波を眺めながら「昔は裏日本と云っていたなぁ」そんなことが思い出された。「裏日本」について思いを巡らせた。「気候・風土」的側面と「政治・経済・文化」的側面があること。そして「裏」に対する「負」のイメージについて考えた。



金沢に住んでいた昭和40年代、その当時は日本海側の地域を「裏日本」、太平洋側を「表日本」と呼ぶことが多かった。物心がついたころから北陸に住んでいる人たちにとっては、「弁当忘れても傘忘れるな」の冬のあの暗いイメージからすればある程度納得できる部分もあったと思う。我々のように太平洋側からある日突然日本海側に移住した者にしてみれば、そういう呼び方も的を射たものだと思っていた。これが「気候・風土」的側面だろう。


戦後の復興は太平洋ベルト地帯と呼ばれる東京から名古屋、大阪、福岡へと続く工業地帯から生み出される工業製品とそれらを輸出する港の隆盛だった。貿易相手は米国であり、重要な国際関係の相手は米国であったことから日本の表玄関は太平洋側であった。相対的に日本海側は裏玄関になってしまった。


時は移り、現在の日本の貿易相手の主役は米国でなく東アジアが輸出入とも半分近くを占める状況で、米国は輸出の20数%、輸入の10数%になっているといわれる。東アジア経済の潜在力を考えると日本経済の成長は東アジアとの結びつきにかかっているといえる。その意味で日本の表玄関が「太平洋の時代」から「日本海の時代」になる日も夢ではない。なにせ、近代以前は中国や朝鮮半島との交易、江戸時代に北前船が活躍したのは日本海だったのだ。


自分の目の黒いうちに南北アメリカ大陸が一番西のはずれに追いやられた世界地図を見てみたいものだ。つまり、日本海が表玄関の世界地図だ。そして、少年の頃からの夢、日本海敦賀から琵琶湖を通って四日市辺りまでつなぐ日本横断運河を見てみたいものだ。



日本海側は「気候・風土」的はハンデはあるものの経済成長を促す地勢的条件はむしろ太平洋側より有利と云える。そうかといって、「裏日本」を堂々とネーミングすればいいというものではない。「裏社会」「裏口入学」などとまっとうでないもの、正式でないものを指す「負」のイメージがつきまとう。「裏日本」は死語となって当たり前だ。しかし、「裏日本は死して日本の表玄関、ゲートウェイを戻した」と語り継がれる日が来ることだろう。