「飛行町」挙母(ころも)


曇り空が主役で降ったり、照ったりとまるで冬の北陸の天気で一日が暮れた。おかげで、グラウンドゴルフも途中で中止。即ご開帳。降れば降ったでまた慌ただしい。


豊田と云えば誰しもが「車」をイメージする。ところが、意外や意外前身の挙母町時代には町有の飛行機があり、現在のトヨタ元町工場が飛行場で「車の町」ならぬ「飛行町」を目指していた。そんな歴史があったことを初めて知った。ご開帳がお開きになった後、豊田駅前にある「豊田市近代の産業とくらし発見館」を訪れた。



名古屋の起業家熊崎惣二郎(1889〜1964)は農地としては不向きな衣ヶ原の台地を飛行場の最適地と目をつけた。満州などに航路を拓き「飛行町」を建設しようと目論んでいた。時は昭和5年のことだった。不況で一時中断しながらも昭和11年飛行場開場にこぎつけた。


挙母町では町有の飛行機が持ちたいという運動が起こり、町民から寄付を募った。購入のメドが立って昭和12年には、旧海軍練習機の払い下げを受け、町有飛行機「挙母号」が誕生した。衣ヶ原飛行場には昭和12〜13年にかけて「挙母号」のほか個人所有の2機計3機があった。昭和14年頃からトヨタ自動車の一三式練習機が新たに加わった。これはトヨタ自動車で試作された航空機部品の性能試験を行うためだった。



戦争が激しくなった昭和17年には飛行場は閉場された。その後は軍需工場として幾多の変遷をたどり、昭和33年トヨタ自動車が国からの払い下げを受け、日本で最初の乗用車専門工場である元町工場が建設された。


挙母町が「飛行町」として、発展をしていたら今の「世界のトヨタ」は誕生してないだろう。自分もここ、三好には住んでいないだろう。歴史に「たら、れば」はないが、あえてその「たら、れば」を考えると空想が広がるばかりだ。