絵画作品展


桜が咲くと必ずといっていいほど雨が降る。きょうは終日「花の雨」だ。この地では「花に嵐」にならなかっただけでも、まだましだ。そろそろ散り始めたこの時期の雨。濡れた歩道に花びらがべったりと貼りついて絨毯を敷き詰めたようだ。


低くく垂れた枝先の花びらの先端の雨粒が魚眼レンズの役をしてまわりの景色を写している。不思議な光景だ。雨に濡れた桜の情緒はひとしおだ。


今、自分を含めて7人のグループで地域の公民館の管理をしている。その公民館で老人クラブのメンバーの女性Nさん(84歳)の絵画作品展を開いている。公民館のホールの壁に10数点が展示されている。             


彼女、老後の趣味で始めた絵画だが、教室とかクラブに所属していたわけでないので発表の場がいままでなかった。年齢が年齢だけに一度みんなに見てもらいたいと、洩らしていたいたという。それを聞きつけた数人の有志が骨おって開くことができた。




わが地域には高齢者のひきこもりや認知症の防止のために居場所つくりを率先して真剣に取り組んでいる人とそのシンパが多数いるので前述のNさんのような場合でもスピーディーに実現するのだ。こうした卓越したリーダーのいる地域で余生が送れる自分も幸せだ。


もし、豊田の保見に住み続けていたら今ほどの充実した毎日はなかっただろう。先日、保見のご近所さんがウチへ遊びに来て云っていた。保見南緑苑は”未亡人集落”になってしまった。と。さぞ、活気がないことだろう。



卓越したリーダーが耕して蒔いた種の収穫の時だけ畑に顔を出すような事では失礼というものだ。分相応の負担はしなければなるまい。せっかく、会社という呪縛から解き放されて自分のしたいことを優先してできる身分になったのだ。それを犠牲にしてまで負担することは御免蒙るというのが自分のスタンスだ。


リーダーが「住むからには 都にしよう」のスローガンで地域の活性化に関する意見交換会を2月から月1回開いている。その会にはそんなスタンスで臨んでいる。Nさんの作品展の開催に骨おったのは分相応の負担のつもりだ。(つぶやき)善意による奉仕がもっと素直にできないものかなぁ。負担だのなんだのと理屈をつけなくても・・・。まだまだ人間ができてないのだ。おれは。