「やらされる」と「自らやる」


「旨い日」が続くがどうやら、あすからは下り坂のようだ。この「旨い日」という表現。金沢にいたとき加賀地方の漁師仲間で使われていた言葉だと聞いた記憶だが、荒れた天気ばかり続く冬から春にかけて時折風も穏やかな晴天の日が巡って来たときに使われていた。                                  


荒天で漁に出られない日が続く漁師にとっては、こんな日和は旨い料理に出会ったような感慨だろう。「旨い日」云い得て妙だ。この「旨い日」を逃してはならじと八朔の収穫をした。去年随分枝を払ったり、摘果をしたせいで、ことしは数は30個くらいと少ないが、大玉になった。



きのうの日記に天皇ご一家の「講書始の儀」のカキコをした。テレビのニュースでその模様を写していた。公式行事とはいえ、面白くもないご進講に耳を傾けるのは大変なことだと思った。嫌だ、嫌だと思いながら「やぁ〜めた」というわけには行かないのだ。


翻って、一市民のクマさん。肌を刺すような北風の吹く中でのウォーキング。携帯電話に歩数計機能がついているお陰でプレッシャーがかかる。ブログは毎日(働き方改革で土日休みにしたが・・)、ウォーキングは毎日1万歩とIT機器に振り回されている自分に対して戦前の映画チャプリンのモダンタイムスみたいだと冷やかす者がいたが、これには異議がある。



モダンタイムスは資本主義社会を生きる上で、人間は機械の一部分のように働かせられ尊厳が失われていることを笑いの中で風刺した映画である。自分は資本主義社会の中で生きてゆくために、毎日ブログを書かされ1万歩歩かされているのではない。自分のために自ら進んでやっているだけだ。


宮中行事であるがゆえに、ご進講を受けさせられている皇族方。「眠くなるから、やぁ〜めた」なんて言えない。IT機器に振り回されているかっこうのクマさんだが、いつでも「つらいから、やぁ〜めた」と云えるんだ。”やらされる”のはつらいが”自らが進んでやる”のはつらいこともあるが、それが楽しいのだ。皇族でなくて、よかった。