やきものロード


昨夜半から待望の雨だ。庭のアジサイも雨に小躍りして喜んでいるのかと思いきや、そうでもなさそう。台風並みの風雨だ。家の前を通る中学生や高校生、雨にも負けず、風にも負けず、白い合羽で必死に自転車をこいでゆく。思わず、ガンバレ!と云いたくなるような光景だ。昼前には日差しもこぼれてきたが、束の間。やはり、梅雨時の天気だ。


きのう午後、みよしの「歴史民俗資料館」へ「みよし最後のやきもの展」を見学に行った。ある目的があったからだ。クマさんが独断と偏見で推測し命名した「やきものロード」に関して補強するような材料を見つけることだった。先月老人会の日帰り研修バス旅行で、足助・稲武を訪ねバスの中で「塩の道」についてのレクチャーを仰せつかった。



その際、話を少々脱線させ足助の北はずれの今朝平(けさだいら)から瀬戸・岐阜県東濃地方を通って東山道(とうさんどう)に達する奈良時代からの街道跡が今も残っている。猿投古窯が廃れた後、この街道に沿ってやきものが瀬戸・美濃の方面で繁栄し、東濃と三河奥地が土雛、五平餅など共通の文化を持つようになった、いわば「やきものロード」なのだ。こんな持論を披瀝したからには、なにか確信を得る材料が欲しかったのだ。



朝鮮半島から伝わったやきものは、良質の土と燃料のある猿投山の西南山麓一帯の広い範囲で焼かれた。この猿投古窯群の一角を占めるみよしでは8世紀から14世紀にかけておよそ600年間続いた。市内で200基近い窯が見つかっている。当初は、硬質のやきもので貢物の食器や仏教に関わる高級な須恵器(すえき)が多く都に運ばれたという。


11世紀末には粗雑な山茶碗の生産が始まり、13世紀前半には一般庶民向けの椀・皿類に特化した生産になり最盛期を迎えた。そのため、大量に作られ一回に約8千枚の山茶碗を焼いた窯も発見されている。(下の写真一番右)13世紀後半以降急速に衰退に向かい、黒笹地区での生産を最後に姿を消した。(※その理由がどこにも出てこない)


しかし、その一方13世紀中ごろには猿投の工人が瀬戸に進出して猿投の技術伝播があった形跡が見られる。それまで東濃型山茶碗一辺倒だった瀬戸で尾張型山茶碗の生産に切り替わった窯跡が多く発見されている。瀬戸窯まで進出した猿投の工人の一部は瀬戸の工人集団と接触し、古瀬戸生産集団として瀬戸窯の中核になり、現在まで続く瀬戸窯の礎となったといわれる。


企画展の中で、上記のような記述に接すると、猿投と瀬戸の工人の交流が「やきものロード」を通してあったことがうかがえる。素人のお遊び推理だ。このあたりで、「よし」としておこう。