頼れるは血縁より地縁


今年初上陸の台風3号、この地には何の爪痕もなく関東地方の沖合に消えて行ってくれた。梅雨時の台風だから、台風一過の青空も期待できず、元の梅雨空に戻った。
                               

きのう7月4日の誕生日の花はヘメロカリスだった。この花初夏から夏にかけて次々と花を咲かせるユリ科多年草で、ノカンゾウヤブカンゾウとして古くから親しまれている花だ。暑さ寒さに強いうえ、土壌もあまり選ばず、植えっぱなしでよく育つ。グラウンドゴルフのホームがランド、桜公園の土手や駐車場周囲の植え込みで6月半ば頃から咲いている。




先月の3日の中日新聞の夕刊コラム「紙つぶて」の内容に気が惹かれた。ちょうど北欧旅行の出発前日だったので、切り抜いてストックしておいた。すっかり、忘れていた。それが出てきた。その内容とはこういうことだった。執筆者は宗教学者 内藤理恵子氏。


最近、火葬場で「骨拾い」されない遺骨が増えているという。愛知県内のある公立の火葬場の職員によると、骨拾いされない遺骨は10年前にはほとんどなかったが、いまでは毎日のようにあるという。真っ先に思いつくのは少子高齢化に伴う独居高齢者の増加だが、実はそうではないらしい。



身寄りのない人の場合、社会福祉協議会が遺骨を保管するなど、骨を拾ってもらえることが多いという。拾い手がいないのは縁者がいるのに「要らない」とされる場合だ。その火葬場では、職員が遺骨を回収し、パウダー状にしてから併設の霊園にある「遺灰碑」に埋葬されていたという。


つまり、身寄りの有無でなく、縁者との関係の希薄化が問題なのである。執筆者はその「遺灰碑」への参拝をしたが、供え物一つなく、周囲に草が生えて、いかにも寂しげであったという。優しい心を持っているはずの日本人、いったいどうなってしまったのだろうと嘆いていた。



「遠くの親せきより近くの他人」ということわざがあるが、遠くの親せきどころか一番近い縁者でさえ「卒婚」だの「死後離婚」なんていわれる時代だ。「頼りは地縁」の時代だ。頼れるのは血縁より地縁だろう。血縁は座していても、生物学的に、法律的に決められてくるが、地縁は座していては向こうからやってくるものではない。


現役時代は、地縁についてあまり頭の中になかったが、リタイヤーして10年以上も経って「地縁」の持つその意義、役割の大きさがわかってきた。幸い、この地域は「地縁特区」みたいなもので、月1の花金居酒屋、麻雀荘をはじめグラウンドゴルフ、カラオケなど地縁の輪を広げるコンテンツは豊富だ。この豊富なコンテンツにどれだけ向き合うかは、本人次第だ。