「とよたの芸者さん」展


お盆ウィークがはじまった。企業城下町はひっそり閑として、セミしぐれを一層引き立たせている。けさは、3時半に起きて全米プロゴルフのテレビ観戦。18ホールのテレビ観戦なんて初めてのことだ。それほど、松山のメジャー初制には期待をしていたのだ。


結果は報道のとおりの5位。前半から後半への折り返し点ではトップに立っていただけに惜しまれる。このレベルの戦いを制するには運を味方につけないと・・・。まざまざと見せつけられた。片や、カップの淵で一旦とまったボールがしばらくした後にカップイン、バーディー。片や、カップに蹴られてボギー。


4時45分頃から15分間は耳でラジオ、目でテレビ。ラジオ深夜便できょうの誕生日の花を聞くためだ。きょうは、ホオズキだった。花は6月頃に咲くが、花が咲いた後に六角状の萼(がく)の部分が発達して果実を包み袋状になり、熟すとオレンジ色になる。今頃の時期にこのオレンジ色が美しいから、誕生日の花として取り上げたのだろう。



きのうの日曜、豊田の郷土資料館で開かれている企画展「とよたの芸者さん」を見てきた。この企画展のねらいは、かつては宴席に花を添えると共に、踊り・三味線などの技芸を磨き伝統芸能を現在に伝える役割を果たしていた芸者さん。豊田市域の挙母・足助などで活躍していたが、昭和50年代から平成になる頃までには、まったく消えてしまった。


今回の企画展では市民へのインタビューや提供を受けた資料によって初めて明らかになった昭和30〜40年代のお座敷文化について紹介している。クマさん的には5月の老人会バス旅行で足助・稲武に行った際「塩の道」の話をした。足助は中馬街道の中継地として江戸時代から栄えて明治末期から芸者がいたなどとでまかせに云ってしまったが、それでよかったか確かめたかった。



企画展の展示物や資料によれば大体は間違いではなさそうだった。大正12年に足助で愛知県山林総会が開かれ、それに合わせて開かれた大観楓会では芸者31人による長唄が披露された。そんな記述の文献があった。昭和22年、町内には70人の芸者がいて、香嵐渓の宣伝に名古屋へ繰り出された。そのような写真の展示もあった。


昭和30年代には、芸者は約30人。この頃から高度成長期が始まり豊田市への人口流出が進み、昭和50年に芸者置屋がまったくなくなった。




挙母の芸者についての詳述は省くが、江戸時代から遊郭があった。昭和14年1月16日の加茂時報(右写真)によると、トヨタ景気に街は沸いたようだ。料亭カフェー大入り満員とある。花街の繁盛も窺える。戦後、昭和32年に芸者は53人、同41年には68人だったという。同50年頃から減少し、平成に変わる頃には芸妓置屋組合も解散、検番もなくなった。


昭和初期の挙母は蚕糸業が衰退し、街はさびれていた。その中で、芸者による「挙母小唄」「挙母音頭」の披露は町の人々を元気づけた。また足助の芸者衆が名古屋まで香嵐渓の宣伝に行ったことは、同所が全国区の名所になる先べんをつけたと云えるだろう。芸者は自らの「芸」で「街」を活気づけ、その振興を長きにわたって支えていたのだ。