神社はだれのものか?


寒に入って未だ5日目。毎日寒い日が続く。レギュラーメンバーでのウォーキングも、一回り以上若い人たちばかりで、この寒さの中でスタートするときには、覚悟と緊張と忍耐を自覚するきょうこの頃だ。


冬枯れの野を歩くウォーキングだが、数年前と違って最近は、何も彩があるものだけが観察の対象ではない。彩だけを対象にしていたらあまり観察するものがない。そこで、形を対象にすると冬芽だとか、落葉樹の葉を落とした後の樹形など色々あるものだ。


ウォーキングコースの中で樹形を観察できる代表的な木はケヤキではないだろうか。枝が細かく分岐するため真冬がもっとも美しいと云えるのではないだろうか。冒頭の写真は家庭菜園のシンボルツリーの真冬の姿だ。木の近くで観察するのではなく、向かいの尾根筋にあるケヤキのパラソルのような樹形をひとつ、ひとつ観察するのもまた面白い。



去年の神社の秋まつりのとき、人とカネが枯渇して神社存亡の危機をカキコした。正月の元旦祭で同じ危機に直面した。半世紀以上前に開拓で入ってきた人たちの「心のよりどころ」として建立されたこの神社だ。紆余曲折があって現在は個別に頼まれて仕方なく出てくるボランティアで維持運営をしている。この状況では、今年の秋祭りができるかどうか不安だ。


国内に目を転ずると、多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する。とさえ言われている。決して、我々だけの問題ではないのだ。



開拓二世の人達が全く無関心だ。そうなれば、地域住民に「神社は誰のものか」問うてみる必要がある。住民の総意で必要ないとなれば、廃社だ。必要となれば、従来通り氏子の役員を輪番でやって維持して行く。あるいは、布教しない、神職を置かないことを前提にコミュニティー施設として行政が関与して維持して行く方法もある。


いずれにせよ、このままでは行き倒れ必至。ゆえに、原点に返って住民に問題を投げかけることを総代に進言する。かつて、氏子役員で3年間関わって来たので、現状を目の当たりにして居ても立っても居らおれない心境だ。