情報の過多、過少


最低気温が氷点下にならない朝が二日も続いた。昨夕からの雨も雪に変わらず、ほっとした今朝の目覚めだ。昼過ぎには薄日も漏れてきた。クリスマス以来リビングに飾ってあるポインセチアが生き生きとして精彩を放っている。これだけ、長持ちしているのはカミさん自慢の手入れのよさだそうだ。


31日夜の皆既月食、病み上がりの身で外に出て写真を撮るのは控えた。多治見のブログ仲間海猿OBのO君が撮ったものをメールで送ってもらった。前評判通り赤黒い月だった。



パソコンを使い始めて漢字が書けなくなった。電卓を使い始めて暗算がまったくできなくなった。昭和時代を駆け抜けた人たちは誰しも通った道だろう。我々のおふくろが健在だった時代には、賞味期限だの消費期限などなかったが、肉や魚やごはんを見たり、匂いを嗅いで食べても大丈夫かを色覚、嗅覚で見分けるたくましさを備えていた。


入院中に情報過多と過少がもたらす落とし穴ともいうべき事象がほとんど同時に起きたことに、あ然とした。今の若い人は、外出するのに傘を持って出ようか否かをスマホの24時間の天気予報で詳細にかつ正確に調べることができるのだ。こうした情報過多が、首都圏に大雪が降った先週のこと、降雪のピークに早目に仕事を切り上げた人が一斉にターミナルに押し寄せ、駅の入場制限までに至った。情報が行き渡り過ぎた社会の落とし穴ではないだろうか。



かと思えば、噴火した草津白根山の麓にある草津温泉では、火山の警戒地域でありながら避難計画の策定が進んでいないことが明るみになった。火山のデータが少ない事が理由という。情報不足で身動きがとれないのも困ったものだ。情報社会の陰の部分だけでは済まされない。


情報に依存しすぎて、漢字を忘れ、暗算が苦手になり、食べものが食に適していることの可否を見分ける能力、たくましさが欠けている現代人だ。孔子がいう「過ぎたるはなお及ばざるが如し」何事も程ほどが肝心で、やり過ぎることはやり足りないことと同じように良いこととは言えない。


情報の洪水で確かに便利さを享受しているが、五感に磨きをかけることも忘れてはならないということかな?