ある通夜での説教


連日の猛暑日攻めの手が休まり、いつもの真夏日になったかと思う間もなく、次は台風12号の接近だ。豪雨、異常高温に続き台風だ。2年後のいまごろ、こんな気象状況だったら果たして五輪がまともにできるのかと心配になる。ここにも、アスリートファーストなどという美辞麗句がむなしく霞んで見え隠れする。アメリカファーストの陰だ。米国のテレビの御都合だろう。


<青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。(中略)年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。> ウルマンの青春の詩の出だしの一節だ。終戦時、昭和天皇が占領軍総司令部のマッカーサー元帥とツーショットで撮られた時に壁に掲げられていた詩で、後に翻訳され松下幸之助氏が雑誌で紹介して有名になったものだ。



先日、義理で参列した通夜の席での坊さんの説教を要約するとざっと次のようなものだった。「人生は長さだけでは語られるものではない。広さ、深さと一体となって語られるべきものである。」亡くなられた方には申し訳ないが義理で参列する通夜・葬式でのお経の時間ほど退屈なものはない。この通夜では、坊さんのお経より説教の方が長いくらいだった。そして、含蓄のある言葉での説教は聞き応えがあった。


坊さんは、ご遺族から亡くなられた方の生前の生き様を詳しく聞いておられたようで、心の広さ、懐の深さが職を通じて大勢の人たちを更生させて、心安らかに彼の岸へ行かれた。長さは平均寿命、広さ、深さも人並みはずれたスケール。いい人生を送られた。 ま、そんな話だった。





三つのことを思った。一つ目。とかく、葬式宗教などと揶揄されるがこの坊さんの様に”人の道”を説いて行くのが本来の宗教でないだろうか。 二つ目。これと似た説教をまだ若い頃にどこでだったか記憶はないが聴いたおぼえがある。結婚式の祝辞に定番があるように、この世界でも定番の説教があるかもしれない。


三つ目。ウルマンの詩を知ったのは10数年前のこと。最初に聴いた説教のときには、もちろん詩のことは知らなかった。今回この説教を聴いて、どこかウルマンの詩に通じるところがある。と感じたがどこが、どういう風に通じるのかの説明ができる能力は持ち合わせていない。退屈しない通夜だったことはまちがいない。