プロ野球セ・パの興亡

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冬将軍の到来。最高気温が20度以下。北海道では猛吹雪だ。

けさのラジオ深夜便がきょう11月15日の誕生日の花はミゾソバと伝えていた。数年前まではウォーキングのコースとなっているあざぶの丘公園の池の水辺で、ピンク色の米粒のような形の花が枝先に密集しているのをよく見かけた。生命力が旺盛で随分と群生していた。今は荒れ放題だ。

 名前の由来は花と葉が蕎麦(そば)に似ているところからだそうだ。似ている花といえば、ソバよりもママコノシリヌグイの方がよく似ている。茎に小さなトゲがあるところまでにている。ミゾソバのトゲは触っても痛くない。名前を付けた人はママコノシリヌグイの方がよく似ていることがわかっていても、どういう名前にするか相当思案したのではないかと思う。蓼(たで)科イヌタデ属.

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プロ野球はいま東京五輪予選を兼ねる国際大会「第2回プレミア12」がたけなわだ。国中が熱狂したラグビーW杯にひきかえ、こちらの盛り上がりはいまいちだ。この大会に先立って行われた日本シリーズも、ソフトバンクの連勝で盛り上がりもなくあっけなく終わってしまった。

 日本シリーズではこのところ、パ・リーグ球団が7年連続で日本一になっている。交流戦も10年連続でパ側が勝ち越している。かつて巨人が「V9」を達成した頃、セ・パの人気格差は拡大する一方だった。「実力のパ、人気のセ」から「人気も実力もセ」という状態になっていた。そこから現在に至るまでの経緯はイソップ童話のアリとキリギリスに重なるところがある。

 アリさんパ・リーグは打撃専門の強打者を打席に送り、派手な打ち合いの面白さをアピールできるDH制を採用した。そしてパワーのある外国人選手をうまく起用して試合に面白みを倍加させた。一方では「投手の打席」という息の抜きどころのない打線との対戦で鍛えられたパ投手の実力が向上した。

 キリギリスのセ・リーグはDH制を採用したら「野球の尊厳を守り、ち密なゲームの展開が壊れる。」と悠然と構えていた。球団の親会社はチームを企業の広告塔と捉え、その存亡についてあまり重要視していなかったのではないだろうか。

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 DH制が導入されて、かれこれ40年経つ。その間プロ野球も企業の広告塔からビジネスになり自前の球場と球団が一体となって総合的な経営手法をとるソフトバンクや札幌に自前の球場を造ろうとしている日ハムなどの躍進がめざましい。そういう球団にかぎってドラフトのくじ運も強い。アリとキリギリスの立場が歴然としてきた。

 7年連続アリが日本一。交流戦10年連続アリの勝ち越し。冬になってキリギリスに喰い物がなくなった。アリの採ったDH制が打撃戦を面白くした。DH制が投手力を向上させた。アリは球団経営をビジネス化したからだ。

 それにしても、日本シリーズでホームランを打ちながら、今年で現役引退の巨人の阿部選手、パ・リーグにいたらDHでまだ働けるのに惜しい。阪神の福留や糸井も来年か再来年にセ・リーグもDH制を採用することを待ち焦がれていることだろう。

「秋の夕暮」と「もののあはれ」

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爽やかな秋晴れが恋しくなるような、どんよりとしてそぞろ寒ささえ感じる秋の日となった。今夜からは下り坂であすの午前中は雨の確率50%の予報だ。            

 爽快な気分の秋晴れの日、昼間には普通の風景だったものが、夕刻には絶景となる事も多い。ある種の絶対的な美しさと切なさをはらんでいるのが、一日の終わり、「夕方」という時間なのかもしれない。「夕暮れ」。そこには詩があり、歌があり、絵画がある。情緒があり、心がある。

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 清少納言は「春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮、冬はつとめて(早朝)」が情趣があっていいものだと綴っている。フランスの画家ミレーの代表作は「晩鐘」だ。「♪♪夕空はれて 秋風吹き/ 月影落ちて 鈴虫鳴く /思えば遠し 故郷の空 /ああ わが父母 いかにおわす」スコットランド民謡に詩をつけた唱歌故郷の空」だ。数え上げたらきりがない。

 真っ赤な夕陽につい見とれてしまうことのように折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、ひと言では言えない感情つまり、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁を“もののあはれ”というのではないだろうか。「秋の夕暮」に触れて“もののあはれ”を感じるDNAは千年以上の昔から今に引き継がれている。

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11月10日のラジオ深夜便による誕生日の花はガマ。ウォーキングの道すがら、池や湿地で群生している顔なじみだ。夏から秋にかけて、ソーセージを思わせる茶色の花穂が目立つ。秋も今頃になると、花穂の中から綿毛が出て来る。冬になるとブワーッと出てきて飛散する。1本の花穂から出る綿毛には約10万個のタネがあるらしい。     蒲科ガマ属。

 

 

 

歌は世につれ世は歌につれ

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立冬」越えの最初の週明け、照ったり、降ったり、時折ゴロゴロ。まるで北陸の初冬から冬にかけての天気みたいだ。いくら暖冬といっても、ウォーキング道すがらの景色も「行く秋」を感じさせるものとなってきた。舟ヶ峪池をとりまく林が水面(みなも)に深い緑色の影を落としていたが、その影も黄褐色や黄色を帯びてきた。   

 かと思えば、一方では黄色いセイダカアワダチソウの傍らで、真夏の花の高砂ユリがまだしぶとく咲いている。カエデの紅葉が始まり、初霜をみるまではまだら模様の三好丘の「行く秋」だ。

 先月の22日の天皇即位の礼に引き続き行われる予定だった祝賀パレードが台風の影響で延期となり、きのう10日に行われた。その前夜祭ともいえる奉祝式典が皇居前広場で土曜の夕方行われた。嵐が奉祝曲を歌ったり、女性歌手が君が代を歌った。奇しくも、昼間のウォーキングの際、丘陵の土手に咲いている君が代蘭(キミガヨラン)の写真を撮っていた。それが、どうした?めったにないことだ。快哉だ。

ラジオ深夜便によると11月9日の誕生日の花はコウヤボウキだと伝えていた。この花2年前の今頃、東山植物園の観察会に参加して散策路で初めてお目にかかった。枝先に、白い、ほうきをひっくり返したような花が咲いていた。 花の形ではなく、枝を高野山で「ほうき」に使ったところがこの名の由来だそうだ。 菊科コウヤボウキ属

 

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7月にみちのく津軽・下北両半島のツアーに参加した。先日その時の写真を整理していて、ネットでちょっとした調べ物をしていた際、吉幾三作詩、作曲の「TSUGARU」(津軽)という歌の歌詞とユーチューブに行き当たった。ためしに聴いてみた。強烈な方言がほとばしるラップミュージックだ。年寄りの会話調で歌詞がはずむ。

 ♪♪おめだの爺(じ)コ婆々(ばば)どしてらば?

俺(おら)えの爺(じ)コ婆々(ばば) 去年死んだネ

おめだの兄さま どしてらば?

俺(おら)えの兄さま 知らねじゃわ

東京(かみ)さ行ったって 聞いたばって

   ・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・

何年 ふるさと 背を向ける

そのうち絶対 バチあたる

   ・・・・・・・・・・・

   ・・・・・・・・・・・

生まれた津軽を なめんじゃねエ !!

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 出だしと途中のごく一部だけの歌詞は上のようだ。口をつく嘆きは津軽から東京や海外に出て行った息子や娘らが里帰りしてこないこと。続いて、寒さの中での医者通いや「いっぺい(一杯)やるべし」と憂さを晴らす姿もリズムに乗り、地方での高齢者の日常や思いをリアルに描いている。

 若者がふるさとに背を向ける引き金となったのは1964年の東京五輪開催だろう。大河ドラマ「いだてん」では今週あたりその辺のところに入っている。集団就職者の愛唱歌として知られた井沢八郎の「あゝ上野駅」もこの頃だ。

 東京五輪から20年も経つと、若者が都会に出てしまい、活力を失い何の娯楽もないふるさとから都会への脱出をめざすラップ調の「おら東京さ行くだ」を吉幾三はヒットさせている。その20年前に流行った「あゝ上野駅」は悲壮感が漂っていたが、ラップ調の「おら東京さ・・・」はあっけらかんとした明るさだ。所得倍増、高度成長のせいだろう。

その「おら東京さ・・・」から30余年、今回の「TSUGARU」(津軽)は残された側の心情を歌にしたものといえるだろう。「歌は世につれ世は歌につれ」とはよく言ったものだ。

「兵馬俑」アナザーストーリー

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きょうは二十四節気の「立冬」。朝夕冷えみ、日中の陽射しも弱まって来て、朝のウォーキングの待ち合わせ場所も日当たりのよい側を選ぶようになった今日この頃だ。

 きのう11月7日の誕生日の花はシラタマホシクサラジオ深夜便が伝えていた。このシラタマホシクサ、伊勢湾や三河湾に近い中部地方のみの固有種で、絶滅危惧種に指定されている。夏の終わりから秋にかけて湿地にかわいらしい白い球形の花が咲く。白色の球形を白玉にたとえたのが名前の由来。遠目には満天の星空のように見える。高い山にガスがかかったような状態にも見える。あるいは、草むらがうっすらと雪化粧したかのようにもみえる。星草科ホシクサ属.

このシラタマホシクサの自生地が意外と身近なところにある。一ヶ所は三好ヶ丘駅から歩いても10分ほど。三好カントリーの東コースと西コースの間に境川の水源長田池がある。その下流およそ500m、丘陵の崖下に50坪ほどの湿地だ。丘陵が宅地開発されたとき湿地が枯れてシラタマホシクサは絶えたと云われていたが、その後湿地が蘇り、このように咲き始めたようだ。

 もう一ヶ所は豊田の市街地から東へ4kmほど、鞍ヶ池公園の先にある矢並湿地だ。ここはラムサール条約にも登録されている豊田市の「東海丘陵湧水(ゆうすい)湿地群のひとつ。広さおよそ5ヘクタール。普段は立ち入りが制限され、毎年秋に5日間ほど一般公開されている。4.~5名ごとにガイドが随行して説明してくれるのがうれしい。

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おとといの夜のテレビ、BS3の「アナザーストーリー」で「兵馬俑は見ていた!~巨大遺跡に翻弄された人々」が放送された。中国の古代遺跡「兵馬俑」を45年前、井戸を掘っていた1人の農民が掘り当てた。秦の始皇帝の軍隊を忠実に再現したおよそ8千体の兵士像が2千年以上の眠りから覚めたのだ。    

 だが時代は文化大革命の真っ最中。スローガンは「古い価値を否定せよ」。名だたる歴史遺産が次々破壊されていた。そんな中で遺産を守り続けながら更に発掘作業を進めた考古学者。そして、その遺産の存在を世界に発信し続けた女性ジャーナリスト。発見した農民、破壊から守った学者、世界に存在を知らしめたジャーナリスト。20世紀最大の発見、その裏に隠されたアナザーストーリーに興味を惹かれた。

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この「兵馬俑」に惹かれて、連れもなくひとりだけでツアーに参加した。8年前2011年10月のことだ。西安の中心部から東へ30数キロの郊外にある兵馬俑坑博物館。紀元前210年に没した秦の始皇帝の陵墓の東側1.5kmの場所にある。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600余体、兵士俑が6千〜8千体あると言われている。兵士はすべて等身大。1体1体みな表情や服装、装備が異なっている。現在も発掘中。

 来世に旅立った始皇帝を守るために配備された軍隊と思われていたが、次々と発掘される文物群からは生前の生活そのものを持って行こうとしていたことがうかがえる。そのため、未だに陵墓の発掘に手が付けられないそうだ。

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エジプトのピラミッドにしろ、日本の仁徳天皇陵奈良の大仏にしろ時の為政者が権勢をふるって、今から考えればとんでもないものを作った。そして、弱い立場の一般人が泣かされた。泣かされた者からすればとんでもない暴君だ。考えてみれば、世界遺産といわれるものの大半は歴史を遡ってみれば”暴挙”の副産物だろう。

 かつて弱い人たちを泣かせてきた暴君も、その暴挙が何千年、何百年経った今貧しい人たちが生きてゆくための重要な観光資源として息づいている。罪滅ぼしをしている。とんでもないスケールの世界遺産に接してこんなことを感じた。

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8年前訪れたときにはそんなことを感じたが、アナザーストーリーを見てから訪れたらまた違った感慨があっただろう。卑近な例でいえば、ツアーでは第一発見者の農民が店頭に出ているみやげ店に案内され、われもわれもとツーショットで撮っていた。

 アナザーストーリーでは、村内のみやげ店何軒かに「ここが第一発見者の店」の看板が掲げられ、平和だった農村の人間関係が崩れたことに嫌気がさして、本物の第一発見者は一時世間から遠ざかってしまったと伝えていた。

 クマさんはツーショットを撮らなかった。ツアーで案内された店の人物がテレビのインタビューに出ていた本物の第一発見者かどうか定かでない。いずれにせよ、発見者にも守った人にも世界に発信した人にも、これだけのことを成し遂げた裏には通り一遍では語り尽くせないアナザーストーリーがあるということがわかった。

 

 

1964年の東京

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最低気温ひとけた、日中ポカポカ秋晴れが2日も続いている。この時季になると黄褐色の桜の葉、銀杏並木の黄葉が随分と進んできた。わが家のスモークツリーの葉も赤くなり、隣家のオキナワスズメウリの1.5cm大の青い実が真っ赤になってきた。季節の変わり目がはっきり目に移る季節になってきた。

 きのう11月5日の誕生日の花はマリーゴールドラジオ深夜便が伝えていた。春から秋まで絶え間なく咲き続ける。「マリーゴールド」とは、「聖母マリアの黄金の花」という意味とのことだ。水がない状態でもなかなかしおれない、強い花だ。                               

 独特の臭気により病害虫を抑えたり生長を助けるといった、良い影響が出るので「コンパニオンプランツ(共生植物)として野菜づくりには最適で、我らの家庭菜園でも多く見られる。

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「東京、有楽町、新橋、浜松町、田町、品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿, 渋谷、原宿、代々木、新宿」東京・山手線外回りの東京から新宿までの駅順だ。東京を離れて55年経った今でも空んじている。学生生活のたった4年間だったが、あの頃は若くて脳みその働きが活発だったこともあるうえ、毎日の生活が充実していたからかもしれない。今、月に2度ほど電車で名古屋に行くが、三好丘から伏見までの駅順は憶えていない。

 おとといの夜、NHKテレビで「ミラクルトラベル 熱狂の1964東京へ」と題したバラエティー番組を田中裕二中村勘九郎の司会でやっていた。東京で最初のオリンピックが開かれ、日本中が熱狂に包まれていた1964年の銀座の街並みを写真から再現!最新技術を用いて出演者たちがタイムトラベルし、時代の熱気を直に体感する。そんな趣向のバラエティ番組だ。

 昭和30年代の東京・下町を舞台にした人情ドラマで、当時を再現した風景や物語が魅力の、観る人をほっこりさせた「三丁目の夕日」と似た時代背景だが、このバラエティー番組は1964年の東京五輪を中心に据えて、とかく視聴率が低迷していると叩かれている大河ドラマ「いだてん」の補強番組臭さもにじませている気がした。

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そんなことは、クマさんにとってはどうでもよかった。CGで再現された銀座4丁目交差点を中心に有楽町方面にカメラが振られると、日劇朝日新聞、有楽町駅ガードの向こうにはそごう、手前には阪急があった。逆に勝鬨橋(かちどきばし)方面に振られると、歌舞伎座があった。

 銀座4丁目交差点を取り囲むように、ソニービル、ライオンビヤホール早慶戦で勝ったとき、ライオンへ行けばビールがタダで飲めた。面識がなくても先輩がおごってくれた。それが伝統だったのだ。とめどなく出て来る若き日の思い出コマツストアーのある通り、みゆき通りだったかスズラン通りだったか、ヴァンのジャケットを着込んだアイビールックの若者が闊歩していた。銀座のど真ん中6丁目あたりに東京温泉なんていう銭湯もあった。

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 話を番組に戻す。この番組は「三丁目の夕日」とは異なった切り口で、日本を勇気づけるように、あの時代を駆け抜けた伝説のスーパースターたちの生きざまにも迫っていた。戦後最大のスーパースター、長嶋茂雄モータースポーツ界のレジェンド、本田宗一郎。性別を超え、美を極めたカリスマ、美輪明宏。そして誰からも愛された天才役者、中村勘三郎。彼らの破天荒な人生哲学に迫っていた。

 有名人たちの数々のエピソードは活字や画像になって後世に語り継がれていくだろう。学生生活から社会人になったという人生の大きな節目の1964年。テレビを見ながら止めどもなく溢れ出てくる青春時代の数々のページ。名もなくつましく生きるクマさんにとっては、自らの手で記憶を記録にとどめて泉下の人となろうときょうの日記になった。まだ書き足りないが・・・。

 

 

 

                     

文化の日あれこれ

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気象予報士さんのいうとおり、11月4日は晴れの確率が1年365日中一番だ。爽やかな秋晴れが広がった3連休最終日。今週の金曜8日が「立冬」ともなれば、四つ池越しに吹き上げて来る風にもそぞろ寒さを感じる季節になった。

 きのう11月3日は文化の日。晴れる確率の高い特異日と昔から云われていた。朝のニュースに時間に気象予報士のおじさんが伝えていた。30年間のデータを調べた結果、1年の内で晴れの確率の一番高い日は11月4日で、11月3日は39番目だそうだ。きのうは午前は晴れ午後くもりだった。

 ちなみに、みよしでの10年間(2010~2019年)の文化の日の天気を日記で調べた。雨降りは2013年、くもりは2011年、晴れ後曇りは2019年であとはどの年も晴れ。7割は晴れだ。晴れ確率1位の11月4日は何%か聞きそびれた。いずれにせよ、この11月の初めというのは暑くもなし、寒くもなしで晴れの確率が7割以上の過ごしやすい日が続く。

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子どもの頃、おとな同士の会話で「文化の日」のことを「明治節」と云っているのをよく耳にした。明治天皇の誕生日だということは、ずっと後になって知った。そして、日本国憲法が昭和21年11月3日に公布され、半年後の22年5月3日から施行されたことも併せて知った。明治天皇の誕生日に新憲法を公布した意図は「現人神(あらひとがみ)」が「人間宣言」したことにあると思うが、クマさんにはよくわからない。

 2018年は明治維新から150年の節目にあたることから、これに合わせて11月3日の「文化の日」を「明治の日」に改称を求める署名が数年前から始まり100万人に達したという。しかし、機を逸した感がしないでもない。       

 今年も10月の半ば頃からメディアも小さく取り上げてていた。まして、憲法改正を目論んでいる与党も国民に戦前回帰をめざすような印象を与えることを危惧して自重しているのではないだろうか。

 

高校の英語の時間にこんなことを習った。「農業」を英語では(Aguricuture=アグリカルチャー)。この英単語の語源は ラテン語の(Agri=畑)と(Culture=耕す)の合成語。また、(Culture=カルチャー)は「文化」としての意味でも一般的。と。

 きのうの「文化の日」、皇居では文化勲章の授与式が行われ、地元みよしの市民センターでは菊花展が開かれているなど、文化の薫り高い日だった。クマさんにあっては、朝から家庭菜園で畑を耕し、しょうがとにんにくの植え付けに精を出した。これも、文化の日に相応しいアグリカルチャーだ。

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ラジオ深夜便によれば、きのう11月3日の誕生日の花はキクだった。なぜか、この日には菊の花が似合う。各所で菊花展が開かれていることもあるだろう。今の憲法が公布された日が11月3日で、憲法の表紙には皇室の御紋である菊の御紋がついていることもあるだろう。

 「菊」の漢字は「散らばった米を1ヶ所に集める」の意で、菊の花弁を米に見立てたものだそうだ。 漢名の「菊」は”究極、最終”を意味し、一年の一番終わりに咲くことから名づけられたという。菊は皇室の紋章になり、日本の国花になった。(日本の国花は、この菊と桜の2つ)

 桜といえば桜のジャージのラグビーW杯の日本代表のベスト8進出を初めとして、大会期間中自然災害が頻発の中で、数々の明るい話題を提供してくれた。観客動員数、大会運営面、訪日客のもてなしなど、主催者側から最大の讃辞を贈られた。

 ウルグァイの選手が飲み屋で暴れたことは、まぁ目をつぶってもいいが、土曜日の決勝戦で負けたイングランドの選手が表彰式でメダルを首に掛けるのを拒んだり、すぐに外したりした態度は「潔く負けを受け入れていない」などと批判の声が上がっても当然だろう。「終わりよければすべてよし」というが最後にミソをつけた.

 

 

 

 

マチュピチュあれこれ

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穏やかな秋晴れの日が続く中、もう11月、霜月だ。早いもので、来年の年賀状の売り出しが始まった。朝から、沖縄首里城の火災のニュースで持ちきりだ。15年ほど前一度だけ行ったことがある。木造建築が一度燃え出したらあっけないものであることを、まざまざと見せつけられた思いだ。その点、きょうのテーマのマチュピチュは石造りで火には強い。                        

 

 一度は訪ねてみたい世界遺産の筆頭は何と言っても南米ペルーのマチュピチュだ。友人、知人で何人もが訪れている。彼等に対して悔し紛れにいうセリフは決っている。「行くヒマはいくらでもあるけれど、あんな標高の高いところでは心臓疾患のある自分には無理だな」。

 

そのマチュピチュに関する情報に接する機会が最近2度もあって、そのミステリアスな背景にロマンを掻き立てられている昨近だ。

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10月の初め南東北のツアーに参加した際のことだ。松島から裏磐梯へバスで移動。福島県安達太良山(あだたらやま)のすそ野を通った。ガイドは高村光太郎の「智恵子抄」に出てくるこの山について長々と語った。一旦口を開くと留まることを知らないこのガイドさん、続いて話したのが、この山の麓に広がる大玉村のことだ。

 

空中都市として人気の高い世界遺産を抱えた南米ペルーのマチュピチュ村が世界中から申し込まれる「友好都市」のラブコールを断って、初めて選んだ相手は何と、日本の農村、福島県大玉村だった。何で?

 

マチュピチュ遺跡で開かれた提携式典では民族衣装をまとったマチュピチュ村の村長と、紋付き羽織姿の大玉村村長が並ぶ姿がなんともミスマッチだが、清々しさすら感じさせたことと想像できる。

 

移民としてペルーに渡り、初代村長を務めるなど観光開発に尽力した野内与吉さんが大玉村出身だったことから、マチュピチュ側が提携の話を申し込んでいたと云う。人口8500人の大玉村平成の大合併にも乗らず、地球の反対側の国が100年近い昔の恩を忘れずに運んで来た良縁を機に「住民に日本一近い」村づくりを進めているという。

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おとといの水曜日、この6月にNHKが2日間に渡って天空のマチュピチュ遺跡から世界初の4K画像中継を行ったものを2時間にまとめて、そのダイジェスト版をBS3で放送した。興味深く見た。

 

当時インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400m。標高2,400mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にその首都があった。インカ帝国は日本でいえば戦国時代の16世紀初めにスペイン人による征服により滅亡した。、

 

 アンデス文明は文字を持たないため、アンデス山脈の断崖の上にあるマチュピチュは誰がいつ、何の目的で築いたのか?どのようにして精緻な石組みを作ったのか?多くの謎に満ちている。首都クスコとの関係・役割分担など、その理由もまだ明確に分かっていないという。

 

急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、夏至冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。

 

成田を飛び立ち、日本の真裏にあるマチュピチュに着くまで40時間かかったと驚いていたアナウンサー。秋の夜長にミステリーロマンは深まるばかりだ。