被告人が裁判官を選ぶ


天気予報を見ると日本海側は雪でこそないが雨マーク、太平洋側がお日様マーク。冬型気圧配置の前触れではないだろうか。あしたからはもう11月。冬の到来を予感させる気圧配置。そんな時季になってきた。


ここにも冬の到来を予感させるシグナル。ウチのビワの花の蕾が大きくなった。冬になると庭や野に咲く花の数がうんと少なくなり、地味ながら花の存在感を示すのがビワ。11月の下旬から12月が盛りと云われ、毎年大体その時季に咲いている。今年はもう、写真のような状態だ。咲き始めるのも間近だ。


ノーベル賞の山中先生、文化勲章も決まった。当然のことだろう。外科医としての山中先生にはこんなエピソードが語られている。他の医者が20分で終わる手術に2時間ほどの時間が掛かったり、点滴に失敗するなどし、指導医からは、「お前は「やまなか」ではなく、「じゃまなか」や」と怒鳴られ邪魔者扱いされ、「向いていない」と痛感したという。


手術を受ける患者の立場になれば、「じゃまなか」先生に執刀してもらうのと、手術例が何百もの実績のある神の手を持った先生にしてもらうのでは精神的負担が天と地ほど違う。そこで、医師の方で手術例を公表して患者に医師を選ばせるのが一般化しているようだ。


自分の命を託す患者と医師の関係は司法の場の被告人と裁判官も同じではないだろうか。公平無私の代名詞でもある裁判官も所詮人の子。それが、サイコロで丁と出るか半と出るかで判決が変わり、ひとりの人間の運命が決まってしまう。神が裁くのでなく、人の子である裁判官が裁く。ならば、裁かれる者に裁判官を選ぶ権利を与えてはどうだろうか?


こんなカキコをすると、どこかから「そんなことを考えているヒマがあったら、医師の手術にも裁判官にもお世話にならないようなことを考えたらどうだ。」と言われそうだ。