今に生きる古典


晴れ間はあるものの、午後からは雲が多くなり風の冷たさを感じる天気。早いもので11月に入った。庭の菊がひときわ色づいてきた。11月、菊と聞くと何だか文化の香りがする。きょう11月1日は古典の日とのこと。初めて知った。日本の古典文学を顕彰する日とのことだ。


古典といえば、吉田兼好徒然草を古文で習った。「現代語訳」や「古文法」を形の上から学んだだけのような気がする。学んで半世紀以上も経って”さわり”だけでも読み直してみると鎌倉時代末期に彼のいわんとしたことには現代にも通ずる「普遍の真理」「珠玉の金言」が不思議と多くあるものだ。



第8段 (原文)
世の人の心惑はす事、色欲(シキヨク)には如(シ)かず。人の心は愚かなるものかな。(中略)九米(クメ)の仙人の、物洗ふ女の脛(ハギ)の白きを見て、通(ツウ)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
(現代語訳)
人の心を迷わすものでは、色欲に勝るものはない。人の心とはたわいないものなのである。久米の仙人が洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという話があるが、実際そういうこともあるかもしれない。なぜなら、女の素肌のつやつやとふっくらとした美しさこそは、まさにこの色欲を掻き立てるものだからである。

第38段 (原文)
名利(ミヤウリ)に使はれて、閑(シヅ)かなる暇(イトマ)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
(現代語訳)
富と名声の追求に心を奪われて、休むことなく苦労を重ねて一生を過ごすのは馬鹿げたことである。


時空を超えた人間の英知の結晶、古典にはなるほど「普遍の真理」「珠玉の金言」があるものだ。