多治見空襲について思う


昨夜からの雨も朝には上がった。いつ降り出して来てもおかしくない梅雨空の下で、恒例のご近所さんとのウォーキングも県緑化センターでの「季節の花めぐり」も、傘の世話にならずにすんだ。



先月の初旬だったかと思う。中日新聞に「多治見の空襲 新映像 米から入手、公開」こんな見出しで、モノクロの写真付の記事があった。切り抜いて、どこかに仕舞い込み、すっかり忘れていたのが出てきた。その写真というのが上の写真だ。1945年7月15日、米軍の機銃掃射を受ける多治見駅付近だ。この写真のどこかに幼きクマさんが、押入れの布団にもぐっていたのだ。


多治見空襲というのは、当時4歳だった自分の唯一の戦争の記憶だ。1945年(昭和20年)7月15日お昼頃のことだ。太多線美濃太田方面からやってきて多治見到着間際の列車に米軍艦載機が何度も執拗に機銃掃射をくりかえした事件だ。同時に小泉駅多治見駅舎、駅近隣の病院やわが母校昭和小学校も銃撃に遭い、乗客を中心に40名近くが死亡したといわれる。



この時自分は、艦載機の轟音と機銃掃射の音でお昼の支度をしていたおふくろが、「押入れのふとんにもぐり込め」と叫んで、押入れに飛び込んだのだ。そんな記憶がある。駅前本町通りにある自分の家は駅とは目と鼻の先だから駅舎が銃撃を受けた時は、流れ弾が飛んで来てもおかしくない距離だった。
                                                   

空襲後の多治見駅出入口には犠牲者の遺体がうず高く積まれ、多数の重軽傷者であふれかえっていたという。その後駅裏にあり、我が家が檀家となっている安養寺に遺体が運び込まれ、全遺体の身元が判明するまでに11日を要したといわれている。こうした事実を知る人たちは、口を閉ざして他人にあまり語らなかったと思う。親から聞いたこともなかったし、学校で教えられることもなかった。知ったのは、この5.6年の間のことだ。



戦争の悲惨さを体験したり、目の当たりにした人たちが年を重ね、次世代に語り継がねばならないという機運が高まったのは、ごく近年のことだ。多治見空襲でも語り継ぐ会などといった市民運動があって明るみになった事実が随分とあるようだ。冒頭にある写真は大分県宇佐市の市民団体が米国国立公文書館から新たに入手した米軍の映像を報道陣に公開したもの。5道県の空襲や沖縄での空中戦の様子が37分間写されているという。


冒頭の写真では、あの写真のどこかで4歳だった自分が逃げ惑っていたことを知った。去年だったか、おととしだったか、多治見空襲の際、病院で負傷者の手当てに奔走されていた看護婦さんの生々しい手記を読んだ。先般オバマ大統領が広島に訪れた際、捕虜となって広島に収容されていた米軍兵士が、米軍の落とした原爆でなくなっていることを初めて知った。これらの事実は「戦争の残酷さ」を物語っている。その事実を知るのに71年かかるとは、あまりにも長すぎる。