消えゆく町の本屋


7月も終わってあしたからは8月。グラウンドゴルフも8月は夏休みでやれやれだ。カッと照りつける太陽が君臨する真夏の空の下でのゲームは、いくら好きでやっているといっても老体にはつらい。まして、今年は今までの経験則では推し量ることのできない気象続きだ。


この時期の太陽は、まさに天そのものが炎を上げるかのような威力を発揮している。「炎天」「猛暑」とは威圧的な夏空を明快にあらわしている。そんな気がする。そんな昼の夏空に呼応するかのように夜空まで、今夜は火星が大接近で暑い、熱い夜になりそうだ。多治見の仲間のブログでは気の早い連中が大接近前夜祭の写真をアップしていた。その内の1枚をパクった。



いま全国の書店は1万2千店。2000年には2万1千店あったという。出版不況が背景にあるうえ、コンビニやネット書店が隆盛している影響が大きい。町の本屋さんが次々に町から消えてゆく。自分の実家が昭和3年開業の町の本屋で、長兄が2代目でやっていたが子供は継ぐ気がなく、7年前に廃業したから余計身近に感じる。


町の駄菓子屋が子どもたちのサロンであったように、駅前の本屋は列車待ちの学生たちの立ち読み場所であり、先生や本好きのおとなのサロンでもあった。それだけに、町の駄菓子屋さんとか町の本屋さんという言葉には、濃密な響きがある。




子ども心に憶えているのは、サロンなどというと耳触りはいいが、若い先生が金を借りに来たり、画材も扱っていたのでその代金を描いた絵と交換してやったりもして先生のたまり場的雰囲気があった。


町の駄菓子屋さんが今や消え去ってしまった。それと同じ運命を町の本屋さん辿ろうとしている。仕事や学校帰りに、ふらっと立ち寄った本屋で、何気なく手にした本との幸福な出合いを経験した人は少なくないだろう。うんちくたっぷりの店主との会話を楽しむのも、町の本屋ならではの充実した時間だ。本屋がもたらすのは、そうした暮らしの潤いだ。



何かとても大切なものをなくしつつあるような気がする。駅前にあるのが、横文字ばかりのコンビニ、ファストフード、パチンコだけでは余りにもさびしすぎる。