「雀百まで踊り忘れず」


お昼の気温が20度。つい先だっての寒さからいっきに5月の大型連休頃の陽気になった感じだ。グラウンドゴルフに打ち興じる人たちの服装もパッと春らしくなった。家庭菜園の土手にある2本のサクランボの木のまわりが一斉に明るくなった。開花なのだ。庭の花壇も一斉に春らしい彩になった。



「自分史」の講座、正月明け早々から始まり週1回全10回だったが今週金曜が最終回になる。ワードの機能をフルに活用して手作りもできるし、本格的に製本化することまで紹介してもらった。大半の人はせっかち派で10回の講座の間に原稿を仕上げてバインダーで綴じるタイプの「自分史」を完成させている。


自分は、「自分史」を片付け仕事みたいに完成させるのではなく、少々オーバーな表現だが、ライフワークとして原稿を積み重ねて最終的には製本する計画でいた。こういう慎重派は自分の他にもいたが少数派だ。せっかち派の人に云ってやった。自分史をそんなにさっさと完成させるとお迎えが早まるよ。と。


そんなこんなでまだ道半ばの「自分史」だ。正月明けから始まった自分史の原稿書き、これまでを振り返ってみると、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだと気づかされる。今まで改めてそんなことを考えてもみなかった。第二の人生に入って夢中になってやっていることの元はといえば青春時代に同じように夢中になっていたことの延長線上にあるということなのだ。



高校時代の部活は報道部だった。新聞づくりだ。名古屋の名古屋タイムズ社へ原稿を持ち込み、製版・印刷をしてもらっていた。どれくらい原稿を書いたか記憶はないが、名古屋へ校正に行くのが楽しみだった。         


今から思えば、「自分史」を書くことがあまり苦にならないことや、リタイヤーして始めたブログがこの夏には、書き込み日数が3千日になることも、そして、地域の自主防犯クラブで約千戸に各戸配布する啓蒙紙の編集・発行を手掛けて50数号に達していることも、その土壌は報道部で培われたのではないかと思える。報道部でぶらぶらしていたことも、無駄ではなかった。



リタイヤー後3.4年はカミさんの体調が優れず自重していたが、その後毎年海外旅行に熱中している。その原点は大学時代に毎年夏休みに仲間と連れ立っての「貧乏旅行」で未知の土地の風景や人々に触れる楽しさだっただろう。「三つ子の魂百まで」「雀百まで踊り忘れず」よく言ったものだ。第三の人生に入って、いくら未知の土地が気に入っても「徘徊」だけはしないつもりだ。